4.オムロンのイントラネットの歴史
- 黎明
オムロンはインターネットの基礎となるUNIXにパイオニアとして取り組んできました。最初のマシンは1984年に出荷を開始した「スーパーメイト」と言うモトローラ社の68000をCPUとして使ったワークステーションでした。、当時サンマイクロシステムズが設立されたばかりで、10MHzのチップを使っていましたが、我々は国産の最新の12.5MHzのチップを使い、当時の最高速マシンとして登場しました。
当然UNIXを使うと自然にインターネットを使う事になるのですが、UNIXそのものが技術者しか使えないものだったため、技術者同士の通信手段として細々と使われていたに過ぎません。 しかし、それでもUNIXの将来性に気づいていた我々は草の根的にオムロンの中でネットワークを拡大していきました。シグマワークステーション、LUNAワークステーションとマシンは進化していきましたが、その一方で「オムロン・インターネット」が着々と規模を拡大していました。 最終的には全国30個所以上、2000人が使うネットワークにまで成長しました。 当時はだれもこれが「イントラネット」だと言う意識は無く、ひたすら便利なネットワークとして整備を続けました。もちろん今ではこれが典型的なイントラネットである事は間違いありません。 しかし、この段階では依然として技術者専用のの情報インフラでありました。 草の根的な従って統率の無いものでした。
- 発展
次の転機は1990年です。 当時アメリカのコンピュータ会社の日本子会社を買収する話が持ちあがりました。最終的には91年に買収は完了するのですが、この時アメリカのインターネット文化がどっと入ってきました。アメリカの会社では上は社長から下は新入社員まで全員がメールを使って仕事をする環境にありました。 日本子会社もその例外ではなく、当時の事ですから専用線を日米に張って日常的に電子的なコミュニケーションを行っていました。 当然、我々マネージャー層もその会社とのコミュニケーションは電子的に行う事が必要になったわけです。インフラ自体は従来からあったわけで、結果的にマネージャー層が日常的にメールを使うきっかけになりました。 更に、組織としてインターネットをうまく使いこなす、つまりイントラネットについて深く考える切っ掛けにもなったわけです。
- 統合
こうして、1993年にはイントラネットの原形とも言うべきシステムが徐々に稼動を始めました。こちらはどちらかと言うとトップダウンのやり方で、マネジメントサイドから見たシステムでした。 当然、以前からあるシステムとの融合が必要となるのは時間の問題でした。 94年の始めには両システムを統合した、本格的なイントラネットの「セサミ」と言う名前のシステムが稼動を開始しました。 しかし、これが長い混乱の始まりでした。
WWWは94年の始めあたりから話題にのぼっていましが、我々のシステムは、それ以前から運用を始めていたので、初期の情報共有はもっぱらニュースシステムで行っていました。 WWWはその年の夏には本格化し、94年の終わりにはブームといってよいほどの盛り上がりを見せました。 我々は94年の夏ごろWWWをイントラネットとして取り込む事にしました。 しかし、WWWは基本的に片方向の情報伝達ですから、情報共有の一部の機能が取って代わられただけで、よく言われような、WWWが全てではありません。 依然としてテキストベースのニュースシステムは双方向の情報共有として使われています。
- 融合
これは現在でもまだ進行中ですが、両者の融合と言うのは口で言うほど簡単な物では無い事が徐々に分かってきました。 管理の問題、保守の問題、他部門との」連携、セキュリティの問題などなど、草の根とマネジメントの基本的な衝突が始まったのです。 どれをとっても重要な問題ばかり、しかも片方に寄ると片方が成り立たないと言う事が随所に出現しました。 例えば管理の問題は、技術者は自分たちでやりたい、今まではボランティアでやってきた、最新の技術を取り込むには自らやらなければならない、と言う主張。 一方のマネジメントは、業務の基幹システムはキチンと管理しなくてはならない、基本的にボランティアで成り立つような業務は組織として疑問、本来の仕事は別にありこればかりに関わってはいられない、と言うような相反する問題が出てきました。 更にインターネットやイントラネットが組織のフラット化に代表される組織変革と深く関わっている事が理解されるに従って、根本的な問題が含まれている事が明らかになってきました。
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