消えた寺号地名「万願寺」ノート


万願寺を探る会 増田鼎

万願寺という寺号をもつ寺院がかつて存在したことはまず間違いないようだが、その沿革は幻の廃寺として不明のままである。

先般私は本協会の別記座談会の末席につながらせて頂き、啓発される点が多大であったが、その後、さらに考証を加えた結果、ごく大ざっぱながら、ある仮説へ思いいたったので、以下にその一端を略記したい。旧名は萬願寺と称してきたが、便宜上、万願寺と統一的に表記させて頂く。



一 万願寺の起源について

万願寺の創建は鎌倉期いわゆる鎌倉佛教勃興期以降にかかると想定する。スペースの関係でこれ以上本問題に深入りしないことをお許し頂きたい。

万願寺の起源に関連して現在地名、東山本町の真宗東本願寺派の円光寺に関する貴重な資料がある。これは座談会の折にもご披露したが、当時の京都の本山より同寺あての書状の中で本尊および寺号下賜の年号が貞享元年(一六八四)と明示されている。また、同寺の別の文書で円光寺は永正十三年(一五一六)建立と明記されている。

浄土真宗の開祖親鶯の没後まもなく久宝寺の地に早々と慈願寺(現在の同寺の前身)が弘安三年(一二八○)に創建され、同寺の住職法円が、真宗中興の祖蓮如に魁けて大坂の石山の辺に拠点をおいたと伝えられている。蓮如の主導に依る石山御坊の創建は明応五年(一四九六)であった。ちなみに、法円の名は現在の大阪市内の地名、法円坂にその偉業の名残りをとどめているとされる。

ここで、私は独断ときめつけられることを承知で敢えてある仮説を提言したいと思う。それは上記法円かあるいは彼に近い誰かが本題の対象たる万願寺の建立にかかわった可能性があるのではないかということである。自坊から離れた土地よりも比較的手近な場所で念佛宗弘布の拠所を模索した上、寺院創建に踏み切ったことは充分考えられるのではなかろうか?

更に云わせてもらえれば、同じ八尾市域の福万寺についても私は法円関係の貢献の可能性が考えられると思うのであるが、本題よりそれる恐れがあるので、これ以上触れることを避けたい。

ここで万願寺の建立時期とその存続期間について一言したい。裏付け資料が皆無である以上、推理小説風の手法に寄らざるをえない。私の今の推測では、初期慈願寺の住職法円が石山の地に拠点を設け寺院化した時期すなわち文明十三年(一四八一)頃より何十年か遡った時点に建立されたのでないかということになる。

親鸞を開祖とする浄土真宗が十四世紀を通じてその地歩を固め、近畿方面へはむしろその伸長が立後れていたとみられるが、いわゆる一向一揆あるいは土一揆の鯨波は十五世紀に入るとともに全国的に拡大した。近畿一円では特に正長元年(一四二八)の正長一揆を嚆矢として頻発し、河内の地でも長禄元年(一四五七)に関所撤廃・徳政実施をかかげて蜂起の上、要求を勝ちとったという記録がある。当時真宗寺院を核とした「寺内町」形式の信仰と生活とを重層化した庶民の組織体が形成されていたが、これは同時に一揆の活動拠点でもあったと考えたい。

火山の噴火にはマグマ形成の事前段階があるように、一揆旗上げにはその拠点となる道場ないし寺院が用意されていなければならないだろう。

その意味において、私はとりあえず、万願寺建立の時期を前記長禄一揆(一四五七)より十年ないし五十年程度、恐らく二十年から三十年までくらいの歳月を遡った頃ではなかったかと仮定しておきたい。またその終りは円光寺建立(一五一六)の時点より十数年遡った頃であろうかと推定する。円光寺は万願寺に替わる信仰の新拠点として建立されたものと推測されるからである。なお終焉は兵火との関連が最も可能性が高いであろう。いずれにせよ、存続期間が戦乱の世にあって比較的短期であったためか、正確な記録をなにもとどめることもなく歴史の舞台から消滅してしまったのでないか?



二 万願寺の宗旨について

既述のように、万願寺の宗旨または宗派は念佛宗それも浄土真宗であったろうというのが私見である。

万願寺の命名の由来を類推すると、近辺の廃寺たる六万寺、福万寺等共通の「万」の字は念佛を何万回も繰り返し称名することが連想されるし、「願」の字は極楽往生を願望することが想定されると考える。また係わり深かったのではないかと私が仮定する慈願寺の願の字と同じである。



三 万願寺の寺域について

この寺域に関することが私にとって一番難問だったが、私の興味をひいたのは、河内志の記するところの福万寺(廃寺)についての記述である。すなわち、「村の中央に御坊町あり、南は十三街道に沿ひて……北は三十八(みそや)神社を限り、西は玉串川に望み……その寺域の広大なるを想はしむ……」とある。私はこの記述は初期慈願寺が建立された久宝寺地域に形成された「寺内町」形式に類似感を抱かざるをえない。

河内志は同じく万願寺(廃寺)に関して、「萬願寺新家の北方に字寺ノ内、寺がへし、かはら、御寮等の散在せるにより略その大伽藍地なりしを推測す得べし……」と福万寺に類した記述がみえる。

事実、延宝七年(一六七九)に提出された延宝検地水帳でも、万願寺の名を冠した部分で、川原〔かわら〕の別名寺内〔てらのうち〕の小字〔あざ〕名が見え、この場所は旧称新家(東山本町七丁目地域)の北方に当り、河内志の記述と合致する。私は一応この「寺内」の場所が万願廃寺跡と想定したい。しかしこの辺りは恩智川が貫流していて、旧万願寺地域と遮断されている。

ここでは私はひらめくものを感じた。戦後に撤去されたが、恩智川には石材製の三橋(しくい橋、ごりょう橋、古橋)がかつて架設されていた。そして、この三橋で結ばれた地域を一体とみれば万願廃寺を頂点とする寺内町類似地域が形成されうるのでないかとの発想が浮かんだ。福万廃寺とは一味違った恩智川流域をとり込んだ緩やかな一寺域の形成が想定されるのではないか?



四 万願寺(村落)の呼称について

戦後に東山本町と地名改称された旧万願寺村の呼称は廃寺万願寺より取られたことは衆目の一致するところである。

以下、紙数の関係上、要旨を列記することに止めたい。

@旧万願寺村は北より式部(しくい)、御領または御寮(ごうじょ)、堂垣内または道垣内(どがいと)および新家(しんけ)の四集落で構成されていた。かっこ内は戦前の通称。

A四集落のうち式部が要〔かなめ〕だったよう。命名の由来は不明だが、隣村の上之島に鎮座しました御野県主神社との関連が考えられる。私見の憶測だが、都の上級貴族の式部の大夫なにがしかの参詣、休息用の邸宅があったのかも知れない。次の集落名は御寮が元の名であった気がする。万願寺の住職等の妻女用別邸として、万一の際の足手まといを避けるためだったか? 第三番目の集落の意味も暖昧だが、執筆中、小字〔あざ〕名の東垣内(とうかいと)がなまったのかと考えついたが、これは全くの思いつき。

B万願寺の寺号地名は徳川幕府の切支丹禁制の方針に則って改名されたと想定できる。その時期が上記延宝検地(一六七九)以前であったことは検地帳に照らしてあきらかだ。ただしその改名が一般化してなかったことは円光寺への寺号下賜の時点(一六八四)に高安郡式部村の村名がそのまま使用されていることで推定できる。

C万願寺の各集落はかなり独自の集団行動を取ってきたようだ。例えば、御領は八幡神社を、また堂垣内は住吉神社をそれぞれ氏神として擁立していたことが延宝検地帳の記載によって知られる。他方、式部および新家が御野県主神社へ享保五年(一七二〇)に寄進した石鳥居が現存している。

D万願寺にはもう一ケ寺の真宗寺院がある。しかしこちらは西本願寺派で西光寺が寺名。同寺の開基は本尊下賜が元禄五年(一六九二)、寺号付与が元禄十三年(一七〇〇)と、今回私の調査で判明した。

さて、今回の私の寄稿の動機は最近有志でスタートした「万願寺を探る会」(代表辻田清次さん)の活動に刺激された結果であるが、素人の悲しさで本寄稿に数々の見当違いや思い違いがあるとの思いがしきりである。ここにあらかじめ大方のご寛恕を切にお願いする。また末筆であるが、八尾市立歴史民俗資料館が昨年刊行された「研究紀要」創刊号の記事を私流儀で参考にさせて頂いた。ここに謝意を表する次第である。


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やお文化協会発行 河内どんこう No.31 VOL.14・1990-6 より転載