−大連・旅順と長江の旅−
私は図らずも昨年5月と10月の2回にわたって中国訪問の機会に恵まれた。香港返還後の中国が今後どんな進路を採って行くのか、かねて強い関心を抱いていたので欣然として参加した。

まず五月の旅行−。
これは「大連・旅順歴史探訪クルーズ」という船旅だった。船中7泊で博多・神戸間を6千トンのハイテク船「おせあにっく・ぐれいす」号で往復した。途中で韓国の済州島にも寄港して内陸部を見学したが、これは本題を外れるので割愛する。

船客にはクラス別が無く、その点が気に入って今回は三回目。しかもこれが最終のクルーズとなったので定員100名満席という盛況だった。また乗組員はフィリピン人の見習いも含めて67名もいてサービスもまた満点だった。

大連には戦前の日本の建設にかかる大連駅、旧大和ホテル、旧横浜正金銀行など数多くの建物はそっくり残されていた。またとっくに廃校となった旅順工科大学その他の学校も名称は変わっていたが建物自体はそのまま残されていた。一行にはこの大学の卒業生も参加していて、頻りに在学当時を懐がしがっていた。

特に興味を覚えたのは、旧満鉄(南満州鉄道)本社前広場にあったマンホールだった。戦中・戦後半世紀以上の風雪を生き抜いてきたとはとても思えない程で摩耗も見られず、満鉄のマークがハッキリと読み取れた。一行の興味もここに集中した感があった。風変わりといえば、旧西本願寺の木造建物で、これは都心からやや外寄りだったが、舞踊団の本拠地となっており、全くの豹変だった。

しかし私にはやはり旅順訪問が一番印象的だった。アカシア並木の続く長い道路をバスは一路旅順を目指した。大連より約50キロの距離である。旅順に到着してまず案内されたのは「水師営」の跡だった。日露戦争ゆかりの地として我々戦前派には忘れがたい地名だが、この地名を聞くとすぐ口にでるのは小学校唱歌「水師営の会見」である。.

    旅順開城約なりて
    敵の将軍ステッセル
    乃木大将と会見の
    所はいずこ水師営
    庭に一本(ひともと)なつめの木……

事前にガイドから何も残っていませんよとは聞いていたが、崩れ残った民屋はもちろん、なつめの木は言わずもがな、木らしい木は一切なかった。今はありふれた平屋の長屋風民家が数軒あって、その前の広場のような所が両将軍の会見場所ということだった。

せめて会見場所の表示板かなにかが立ててあったらという思いが去来して仕方がなかった。頭の中にある懐旧の情と眼前の風景との余りにも懸け離れた落差に信じがたい思いに切なるものがあった。

因みに、「水師営」の水師は海の軍隊、即ち海軍を意味し、営とは兵営を意味する。旅順は当時以来軍港であり、ここに海軍兵舎が設置されていたのは十分頷ける。

それから当時のロシア軍の陣地跡の見学へ移った。陣地名は東鳩冠山北保塁という山々が連なった内の山塊の一郭にあった。その時たまたま手にいれた観光用交通図を見ると、それぞれの山塊上に保塁のマークが数個所も示されていて、上記の保塁は端の方に近い。またこれらの保塁は二〇三高地とは中央部の平地を隔てて反対側に位置する。

ここでは地下輩壕が長々と且つ二重、三重に続いて、相互の往来も可能なように内部に連絡通路が設けられていた。塹壕の壁はむき出しで、最近のペルー事件の報道テレビで放映された時のように歯止めの板類は何も使用されていなかった。但し深さ、幅とも十分取ってあり、内部の移動に不自由はなかったと思われる。当時のロシヤ軍は鉄壁の、且つ堅固な要塞を構築して日本軍に対抗したと言われたが、さもありなんといえようか。ロシヤ軍の兵舎跡もそっくり残されていた。

ただ不思議に思ったことは、ロシア側の施設があたかも最近掘削されたようにさえ見えるほど保存状態が良く、むしろ良すぎるということだ。日露戦争以来一〇〇年近い年月を経てなお損壊の跡が、見学場所に関する限り、なんら実見できないのは、あるいは何かの保存処置が取られたのかも知れない。また、主戦場から離れていたことも一因かも知れない。私は立入危険の表示板が目に入っていたが、試みに中に入って地下の一部を歩いてみた。一七ニセンチの私でも頭上は十分余裕があった。

次いでいよいよ二〇三高地の見学へ移った。この名称は海抜の高さから取られたというが、これは昔の軍隊の定法であった。だらだら坂を一気に登りきって頂上につくと旅順港が眼下に展開する。完全に視界が全港を捕らえた。プロの野球選手なら全力投球すれば届きそうな錯覚を覚える位の近距離、好位置で、平地を隔てた反対側山地とは対照的にこちら側はこの二〇三高地の一山だけである。日本軍がここを最重視した理由が明確に飲み込めた。

頂上の真ん中に忠霊塔が高くそびえ立っていた。これは日ロ両軍の戦死者の霊を慰めるため、乃木将軍が自ら「爾霊山」と名ずけたものであった。将軍の奥ゆかしい心情が偲ばれる。

ガイドによると、旅順は今でも軍港で兵舎が数多く散在する。民間人への衛兵達の対応は以前は比較的に穏やかであったが、最近は厳しくなってきたから、用心するようにとのことであった。これはどうも香港返還と関わり合いがあるような感触を受けるとの説明も受けた。

大連到着日は、船中泊で翌日の午後出港したが、大連市内は二日にわたって見学した。星海公園に立ち寄り写真を取ったりした折り、前のベンチに座っていた若夫婦同伴の五歳位の男児が写真をとって欲しいとむずかっていることに気付いた。住所を聞いて後で郵送したところ、丁重な礼状を受け取った。ここに図らずも中国の一人っ子政策、日中の生活レベルの格差、礼状にあふれる人情味などに直接触れる思いがした。



さて、次は十月の六泊七日の旅行である。これは八尾市日中友好協会主催の訪中団に参加したもので、山畑団長以下二十七名の一行は八尾市の中国友好相手先、上海市嘉定区を友好訪問するとともに、近く閉鎖を予定されている揚子江-長江三峡下りを目玉にした観光旅行であった。

嘉定区を友好訪問するとのことなので、思いがけず西辻八尾市長がわざわざ駆けつけて旅行成功への期待を表明されるとともに、お見送り頂き参加者は恐縮した。

嘉定区は、嘉定県を改称者されたものだが、日本と違って、中国では現在「県」は町村程度の単位で「区」に昇格するには、農業から商工業、特に工業化への進行比率が指標とされると伺った。また同区は行政上、上海市の市域に含まれる。なお嘉定区人民政府との交流は到着日夕刻の表敬訪問ならびに歓迎宴と、帰国前日のさよならパーティを通じて親密的なムードに終始した。特に後者のときは王栄華嘉定区長も出席して挨拶された。

到着日の翌日の重慶訪問を皮切りに、三千トンの大型客船に二泊して長江下りに移った。十一月に着手予定の三峡ダム事業と関連ありと私は推測したいのだが、最近の重慶の発展は目を見張るものがある。中国には今直結都市が四都市を数える。即ち重慶(人口3千万人で最大一、次いで上海、北京、天津と続く。重慶は市域を急拡張して今や上海を抜いて中国第一の大都市に成長し、ここが長江下りの出発点となった。

中国はいま建築ラッシュでバブル以前の日本さながらという感じである。重慶も例外ではない。ただ坂の多いこの都市では一台の自転車も見かけなかった。ここで、周恩来や蒋介石ゆかりの家を歴訪した。蒋介石の家(別荘と称していたが、実質は隠れ家一で掲げてあった毛沢東と並んで撮った写真を感慨深く拝見した。

三峡下りは、十一月以後は打ちきりになるので、本船はいずれも満員と閃いた。今回の旅行のハイライトとして三峡の雄大にして息を飲む絶景、奇景の展開に参加者一同は一様に堪能した。しかし、これは体験者のみが享受できる領域である。

またすでに一部着工中の長江ダムの特大プロジェクトの概況を実地に即して説明を聴き、そのスケールの大きさに驚かされた。なにしろ、二〇〇九年の完成時点には水位が今より一七五メートル上昇し、近畿全域位の広大な面積の一割程度が水没するという。流域の居住者など約一二〇万人の移転を要し、日本円で凡そ三兆円と見積られている総予算のうち、移転費用は文化財関係も含めてその約六〇%を占めるとのことである。予定発電量は中国全需要の凡そ八分の一とのことだが、洪水予防、灌漑、魚類養殖など多目的用途も十分考慮に入れられているようだ。言わば自然の人工的大改造であり、影響は計り知れないものがある。

その後、荊州、武漢をそれぞれ訪問し、由緒ある歴史的文物を見学、観光した。上海ではゆっくり市内見学する時間的余裕はなかったが、高速道路から、完成ほやほやの八万人収容可能な大概技場や、その他林立する高層ビルを目の前にして、急速な発展の最中にある上海の今の姿はとても印象的だった。

また嘉定区当局とのさよならパーティの折りには上海の旧租界地の外灘や中国最大の繁華街、南京路を一見する機会に恵まれた。

以上で中国の表側、「明」の側を主に取り上げたが、反対の裏側、「暗」の側も同時に触れなければその素顔は見えてこないと考える。中国旅行中絶えず私の脳裏を去来したのはこの国の社会主義市場経済という今の体制、あるいは国是をこの国は今後も安定的に維持するのか、またできるのかということだった。

我々旅行者には、今の一般民衆の生活は自由主義陣営のそれと大差ないように思える。但し所得格差は歴然としていて、日本への絶えざる不法侵入という形で日常化している。大ざっぱな言い方だが、表面は社会主義、実質は市場経済=自由主義経済=資本主義という図式が出来上がっている。

観光地を巡り歩いて、ずらりと並ぶ街頭の物売りのしつこさは兜を脱がざるを得ない。五月の旅より今度の旅のほうがまだ加速したような感じがする。土産物屋の売買の掛け引きも油断がならない。物にもよるだろうが、十分の一位まで値引きする。これでは、正常な商取引を逸脱してだまし合いの気配に堕する。

旅順で自由市場を見学したことがある。売上は全て金銭登録機を通じて記録されるが、売手は雑然と一区画毎に農産物などを並べ、相互の統一がない。終戦後の闇市の風景にかなり近い。スーパー式の買い物に慣れた身には馴染みにくい。

中国の一般民衆には自由主義経済体制はすでに定着していると考えざるを得ない。ただ支配層は社会主義の堅持を標榜することによって自由主義陣営との交渉、あるいはそれへの対抗の有力な基盤としていると私は考える。

中国当局は上記の長江ダムを初め黄河の流水利用の大工事、その他膨大な諸々のプロジェクトに乗り出したり、乗り出そうとしている。このため自由主義圏に属する先進諸国からは最大限に技術的、資金的援助を引き出そうとするであろう。当然に日本もそのターゲットとされることは疑いないはずである。


私の今回の寄稿は中国旅行の印象記とすることが主体であるので、これ以上深入りすることは本意ではない。この当りで論議の鉾を収めたいと思うが、本文の初めに立ち帰り、一国二制度を適用する香港問題に言及したい。ずぶの素人の私が云うのはおこがましいが、中国が今取りつつある姿勢や政策には大局的に適合する制度であり、変更されることはまずあり得ないということである。 (了)


やお文化協会発行 河内どんこう No.54 より転載

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