座談会 寺号地名


      座談会出席者
      佐々木裕子(郷土史家)
      棚橋利光(府立八尾高等学校教諭 高安城を探る会会長)
      鶴田正人(府立大東高等学校教諭)
      辻田清次(万願寺の歴史を探る会代表)
      増田 鼎(万願寺の歴史を探る会)
      吉岡 哲(府立清友高等学校教諭 日本考古学学会会員)
      編集部 三上 幸寿、 森川 勇、 山本律郎、 山野 としえ


三上 それでは、先生方のご紹介します。まず、 棚橋 先生は「探る会」の会長さんで、郷土文化研究会の副会長さん。八尾高校の先生であります。 その次が 鶴田 先生で、大東高校に勤めていらっしゃいます。山本の北にお住まいです。 それから 佐々木 さんです。本誌に『河内の隼人』を五回連続書いておられ、「探る会」の有力なメンバーです。 山野 さん、道鏡の研究家で、昨年三冊目の本を出版されました。 それから 山本 さん、編集部の有力メンバーで、昨年からこの委員会ができ、お世話になっております。私と同県人で、会社の社長さんです。 次は大和実業の 増田 さんです。ロータリーにいた時お世話になった方で、貿易をやっておられますので、英語がぺらぺら、大学は棚橋先生の先輩です。

それから 辻田 さんでございます。地元で、昨年の八月でしたか、万願寺に生まれたけど、八尾市になってから私の村は消えてしまった。何とか万願寺の歴史をまとめてみたいということで、私も引っ張り出されましたが、別に座談会を持つということでお別れしました。 さて、万願寺だけでやるとなっても、八尾には寺の名前で地名ができ、現在生きているもの、あるいはなくなくなったものがあり、それならこれらを一緒にして座談会を持ったらということになりました。 したがいまして、本日の座談会を開くきっかけをつくってくださった方です。

最後になりましたが 吉岡 先生。清友高校へお勤めで、柏原市民ですが、もと八尾の教育委員会におられました。八尾の古いもの、新しいもの、皆お詳しい方で、まだお若く、原稿が足らんときは「ちょっと先生」と言える都合のいい先生のお一人でいつも快く書いてくださって感謝しております。

以上が本日ご出席のメンバーです。文化協会も昨年の暮れにここに移動しました。協会が今年十月で十五周年になりますので、前は隣の新聞社と一緒におりましたが、狭くて会議がもてません。
幸いこの部屋があいたので隣りから移動しました。そんなことでPRもかね、ここで座談会を開きました。
阿部局長はきよう、ご都合が悪く、事務局の方も急用ができお休みで何もできませんがよろしくお願いいたします。



さて、開催の理由は、さきほど申し上げたとおりで、お手元の小さな紙に消えた地名を書いていますが、これらの地名がなぜできたのか、なぜなくなったのか、全国的に見たらどうだろうか、この九つのお寺の名前(楽音寺、教興寺、神宮寺、久宝寺、福万寺、大信寺、成法寺、顕証寺、万願寺)のついた地名についてお話をしていただければと思っています。なお「全国寺号地名数」は、山本さんがっくってくださったもので、山本さんひとつ説明して下さい。

山本 これ全国の寺号地名を、現行の地名総覧から引っ張り出したものですけど、私の見落としがなかったら、大体これだけの数と自信持っています。もちろん寺(じ)というのと(てら)という言葉の固有名詞のものは、全部この中に入っておりますが、ただ「寺前町」とか「寺町」という普通名詞は入れておりません。
また国分寺という寺(じ)がないのは、もちろん入れておりません。久宝寺、太平寺とか寺(じ)の、あくまであるやつだけ。また藤井寺のテラとあるのは入れております。北とか南とかがありますけれど、それは一つに数えたのがこの数字でございます。

やっぱり東北は少のうございまして、圧倒的に京都市内が多く百十七、京都府で百五十。大阪も市内は十三で、河内に属するのが二十八ありますけど、十六市三町一村です。

そういうように近畿と北陸、やっぱり浄土真宗の布教が強力だったところが、どうしても寺(てら)(じ)という、門前町の名前で残っておりまして、もちろん鳥居町、要するにお宮さんの名前の方が普遍的に全国にあります。これはむしろその地名からお宮の名前がついた方が多うございますから、当然お宮さんと地名と一緒になったのが、数多うございます。しかし、この寺(じ)の方はやっぱり宗教・仏教が盛んだったところの寺(じ)、またはあっても、昔からのいわゆる地名の方が多うございます。

この「寺号地名」というのは、範囲が広くはついておりません。市としては東京の国分寺市、大阪は藤井寺市、香川県に観音寺市と善通寺市と二つ、全国六百五十五市のうち市の地名は四つしかございません。やっぱり地名は住民のコンセンサスでつくるから、宗教の違いもございますし、広範囲な住民のコンセンサスを得られないと思うのです。

殊に明治になって随分消えております。それは信仰の自由という明治二十二年の憲法ができたときと、明治二年の廃藩置県のときに寺号地名は大分消えております。抹香臭いということで、むしろ国分でも大日とかいう、寺(じ)をつけない方が、永続性があってある程度残ります。

ということと、寺(じ)をつけると三字地名で、余り昔から発生していない。ご存じのように、和銅六年に二字地名という政令ができまして、その後臼、また二回目も出ておりますし、少なくとも鎌倉時代までは中国もやっぱり二字地名。寺(じ)をつけたら三字地名になり、地名の観念的には、もう鎌倉ぐらいまでは二字という観念でつけたものではないかと思いますので、この寺号地名ができたのはむしろ徳川になってからじゃないかと思うのです。

というのは、家光がキリスト教を弾圧したときに、やはり踏絵とか、檀家の強制登録とかあったときに、寺(じ)のつく町名に住んでおったら弾圧も少なく、どうしてもこの寺(じ)のつく地名につけたという。恐らくこの寺号地名が極度に増えたのは、徳川のキリスト教弾圧のこのころから、島原の乱の後なんか、特に増えたのではないかと思うのです。

これは私の想像ですけど、いずれにしても、現在千二百六十一、私の数えた寺号地名はございます。
地名というのは、一つの流行性がございまして、一カ所に寺号地名がある町は案外ございまして、ないところは全然ない。東京は八カ所しかないというのは、吉祥寺とか祐天寺という有名なところがあるのに、これは案外私も予想外に少のうございました。

そういうことが、私がこの全国寺号地名を調べた感じでございます。

三上 全国的な視野で、寺号のついた地名を調べてくださってありがとうございました。
さすれば、八尾という町には昔の郡、行政区域からいけば、若江郡に大体二十五の村があるようですが、成法寺村、大信寺新田もある。渋川郡が十一カ村のうちに寺号のついたのが、久宝寺村、顕証寺新田。高安郡で十四の村々があり、楽音寺と教典寺と万願寺。志紀郡にはなく、大県郡に神宮寺村があり、河内郡に福万寺村があります。今の八尾の町は、六十五の町と村々が寄ってできております。隣の柏原市はどうですか。

吉岡 柏原は太平寺と法善寺があるでしょう。

三上 ほかにありますか。

吉岡 ほかにはないですね。ただ、注意せんとあかんのは、寺だけじゃなくて、僕は堂というのも入れていいのと違うかなと思っているのです。

山本 それは私も考えたのですが、堂は少のうございます。院も全国で百ぐらいですね。院は特に京都に五十三、百の半分以上は京都にございます。

堂というのは、固有名詞のついた堂、ここは太子堂ありますが、少のうございまして、ただ、堂は用心しな<てはいかんのは、例えば安堂は柏原ですが、全然仏教と関係ない、圷(あくつ)の転化でございますから。

堂山(とおやま)というのが枚方、あれは倒れる山で崩壊山でございます。だから堂は非常に誤解される地名ではあるわけですね。ほかの意味にとられる。

鶴田 東大阪も六万寺がある。地名で言うたら、太平寺も。

山本 太平寺は東大阪にございます。寺号地名は二十八ございますが、河内には。一々覚えていませんが、八尾が五つ、東大阪がたしか四つぐらいございます。

吉岡 やっぱり八尾は一番多いのですかね。

山本 河内では多うございますね。

三上 きようできた第30号の「河内どんこう」ですが、二十八ページに「中河内郡廃寺」というのがございます。なくなったのが約三百寺強もあり、それぞれ説明が後についております。これから、四回か五回に分けて出そうと思うのですが、今号では八尾だけ。次の号から久宝寺に入って、参考になればと思っています。お手元にお配りしている資料は、これから抜いたものです。八尾はお寺の多い町であり、やはり昔は文化の高い町だったようですね。柏原が少ないという意味じゃないのですけど。これは棚橋先生、どういうことですか。宗派とかいうのは関係なくて名前がっくものですか。あるいはお寺の数が多いから増えるとか、つけ方ですね。

吉岡 宗派もですね、万願寺は宗派と言うたら。

増田 名称から見たら、浄土宗関係だと思いますね。

三上 「中河内郡廃寺」にも、宗派は書いていません、万願寺さんの場合ね。あとははっきりしたのはあるけど。

辻田 立派な地蔵さんがあるのです。それは放光寺参りの地蔵さんと言うておるわけです。

吉岡 その放光寺という名前は残っているのですか。

辻田 立派な地蔵さんがあるのです。それは放光寺前の地蔵さんと言うておるわけです。

吉岡 その放光寺という名前は残っているのですか。

辻田 寺は、ここにあったということで聞いておるのです。万願寺はどこにあったかわからない。

吉岡 もっと古いわけですか。

三上 そこらあたりが、非常にわかりにくいですね。どう見てもはっきりいつの時代にあったものか、その近辺に。
増田氏

増田 実は辻田さん宅とこにあった資料を八尾の資料館に寄附されたのですよ。それは主として円光寺に関するものです。

増田 だから我々としては放光寺の出は、ここにあったということで聞いておるのです。万願寺はどこにあったかわからない。

吉岡 もっと古いわけですか。

三上 そこらあたりが、非常にわかりにくいですね。どう見てもはっきりいつの時代にあったものか、その近辺に。

増田 実は先生のとこにあった資料を資料館に寄附されたのですよ。信頼性は別として、資料があることはあるのです。万願寺か−それは主として円光寺に関するものか。

円光寺というのは、万願寺に円光寺という東の寺と、西光寺という西の寺とニヵ寺あるのです。実は私は円光寺で、次男坊で生まれたのです。今、寺とは関係ないのですけど。

だから私も、実はそういう起源に対する関心は小さいときからあったのです。ただ、ここに来て異分子みたいで、今まで関係なかったみたいですけど、私は私なりに関心はありました。これまで調べたいなと思っても時間がない。しかしもう調べないと、死んでしまうから、調べかけているのです。

辻田 寺号をもろうたときは、河州高安郡式部村惣道場として円光寺をもってこられる。

吉岡 何村ですって。

辻田 河州高安郡式部村。

佐々木 式部橋というのありますね。

辻田 今、シクイと言っているのですけど。

増田 結局村としては、小さい村ですけども、式部、御領、堂垣内、それから新家と、この四つがあったのですね。それが、いつの時代か知りませんけど、万願寺に統一したわけです。そしてそこに万願寺というお寺が昔あったんやないかと、そういう想像をしているわけです。

辻田 そないせんと、万願寺というのが、一体どこからそういった名前が出てきたか。

増田 辻田さんが寄付された資料が一番信頼できる資料なんですけど、これ開けてもらうだけでボロボロとなりましたので、私写真だけ撮ったのです。

まあ、これ今おっしゃった河内高安郡、このとおり読めば式部村惣道場、これは貞享年間ですけど、これは信頼できると思うのです。この写真は、その巻物を広げたところの写真です。

佐々木 私もどちらかと言えば、浄土真宗の普及以前のお寺に興味があるのですが、西郡廃寺には立派な礎石が出ていますし、あれはもっと以前のものですけど、今、地名じゃなくて駅、停留所に西郡、まだ残っており、そういうのをもっと掘り起こしたいなと思っております。

増田 どこにあるかと、いろいろ取り寄せたのですが、結局テンサイになるものはない。だから東口、西口あると言いますけど、私は真宗になってから一つのああいう寺号入れられ、その以前のものやから、それを余り重視する必要ないと思います。それよりも堂垣内というあそこの地名の方が、引っかかる。

三上 枚方の方にも「堂垣内」という地名がありますね。

増田 ほかにもあるみたいですね。

辻田 御堂の堂と、垣内。そういう字じゃないかと思うのですけどね。
辻田氏

三上 そうでしょうな。カキウチと読む地もあるし、カイチと読む地あるし、いろいろの読み方があるそうですね。

増田 その話を進めていいんですか。

三上 本論が万願寺ですから万願寺に入りましょう。

増田 さっき申しあげた巻物のことですが、八尾歴民の学芸員さんの説明によりますと、横にしたのを切り、それを上下につないで巻物にしてあるそうです。もともと横にあったものらしいですけど、それがもうボロボロになりかけているのです。

そのときに一緒にあった資料を、この学芸員の方に、読みづらいものですから読んでもらい、書いてもろうたのですけど、「右の道場、永正十三年に建立仕り候、本尊裏書に記載御座候」と書いています。本願寺は江戸時代に徳川家康が東に分けましたから、東本願寺という以上は、西本願寺もあったはずです。私はむしろ永正十三年(一五一六)がどうも万願寺の起源と違うかいなと思うのです。

それで、特に境内七間、四間になっていますね。かなり大きいのです。あの頃は直轄地やったから、代官に対してこの書類を出したそのときに、巻物にした。ここに委細候というのはその巻物のことだということなのですけどね。

吉岡 さきほどの「境内七間、四間」というのは、一間は約一・八一メートルとすると、一二・六七メートルと七・二四メートルとなり、そう広い範囲ではないですね。

この本尊は今ないのですか。

辻田 本尊は、今、円光寺の本尊であるのですけど、それはまず間違いない。本尊と寺号が。

吉岡 いや、その掛軸じゃないのですか。

辻田 木像です。

吉岡 木像の分ですか。これ裏書とかいてあるから、案外、阿彌陀さんとか。

辻田 調べてもろうたって、何もないということを聞きました。

吉岡 円光寺というのは、永正十三年創建ということなんですか、一応聞きたいですね。

増田 この奥書云々の書類は今言っている貞享三年です。

吉岡 貞享元年は、一六八四年になりますね。

辻田 私も、もう一つ西光寺さんとこで、起源を調べればと思って住職さんに聞いたって、うちにはそんなのないというので、本山に電話したところ、そういうことは言えないということで、また、住職さんに紹介状を書いてもらいました。やっと返事が来まして、それは電話だったそうですけども、西光寺の起源は、本木仏御本尊をお迎えしたのは元禄五年になっています。

それから寺号が元禄十三年ですから、貞享よりは十年か二十年新しいので、大体年号的には合うわけです。

となると円光寺の起源が霞んでしまうのです。だから私は万願寺の起源、これは役人に出したものだから、なるべくお寺は立派な門寺、古いのだということを印象づけるねらいも実はあったんじゃないかと思うのです。だから永正云々は、どこか根拠があって言うたと思うのです。

私はそもそも万願寺の起源のような気がしてしようがないのです。それで、万願寺の起源は、瓦とか寺ノ内とか、そういう地名が残っています。この資料にも新家の北の方にあったらしいということが書いていますから、そこの地名と合うのです。大体の場所は、あの辺だろうということは言えるのです。

万願寺の入口の方に上之島の御野県主神社ありますね。あそこはずっと古いですね。近いところに我々がシラミ地蔵さんと呼んでいるお地蔵さんがあるのです。

吉岡 角っこのところですか。
吉岡氏


増田 あれが学校の先生をしておった谷野浩さん、あれと私、中学一緒なんです。あの君が本を出したが、生前に話を聞けばよかったなあと思っていたのです。

あそこにシラミ地蔵さんのことを書いておりますが、あそこにある起源が案外新しいのです。私が調べたら、シラミ地蔵さんが一八〇九年になっています。

それで、その時代にお地蔵さん、これもはやりで、あちこちこしらえたと思うのですけども、私はこれは二代目ではないかと思うのです。垣内の善光寺さん古いですね。

棚橋 わからんぐらい古いの違いますか。(笑)

辻田 あそこに持っていくときに、地蔵さんをかついでいたら、夜が明けた、だから白んだ、というのでシラミ地蔵と。それは私、子供の時分から聞いていましたね。

だから、それを持っていって、垣内の善光寺に据えたのだから、あのシラミの地蔵さんは非常に古かったのですが、これは一八〇九年、当然二代目でないと話が合わないのです。

増田 当時、あの辺には橋がなかったと思うのです、大和川が流れていましたから。それで御野県主神社もあるし、あそこは大体土地が高かったので、川が切れても大丈夫だったから、お宮さんを建てたと思うのです。

あの辺は、どうも川を歩いて渡るのに、渡りやすかったのじゃないか。シラミのあそこを通って垣内に行くのに、もっと恩智の方を通れば近いのですけども、あそこを通っていった。

あの辺は、俊徳丸が通っていったというのです。ということはあの辺が一番、川を渡るにしても通りやすかったですから、道としてはかなりあったと思う。中世にはもちろんついていたと思うのですけど、ただ人が住むようになったかどうか。

ただ、万願寺もそうですけど、さっきの放光寺のところがら上之島、福万寺、ずっとお墓が多いのです。

今、住宅建っていますけど、古墳時代はあっちで人を埋んだのですが、こちらはむしろ大和川の堤防を利用して、焼いたのだと思います。だから昔の大和川の堤防に沿うてお墓が多いのですね。

吉岡 放光寺というお寺も、ただ焼くだけでは何だからと、墓に引っついてお寺を建てたと思うのですけどね。だから放光寺、万願寺の墓の横の方に建てた。

増田 その万願寺の墓にかなり古いお墓がある。万願寺墓地板碑があるのです。これが天正元年、西暦一五七三年と書いて、桃山時代と書いていますから、これは案外古いですね。もちろんこんな板碑でするのだから、かなり金のある人のお墓で、一般の人はとても墓つくるどころやなかったと思うのです。

鶴田 私が親父から聞いていますのに、大和川が南に氾濫した。一遍にザッと来たので、古い墓があった
鶴田氏
けれども、それは全部流れてしまった。だから万願寺の墓には古いお墓が少ないと言うことだけ聞いております。

その決潰場所は、私ら子供の時分は木が茂っておって、小さい池みたいなのがあり、日照りのときはそこから水を田んぼに引くとか、あの筋にはたくさんあります。

吉岡 加美鞍作の池もそうらしいですね。

辻田 それからワタ池、瓢箪池、今の玉串の墓の前にもあったのです。今は住宅になっていますけど、切所はたくさんありました。

増田 ちょっちょっとありますね。

三上 念仏庵というのがあるのですか。

増田 いや、そんなんは私は、記憶……。辻田先生御存じですか。

三上 圓勝寺。

辻田 圓勝寺はもう潰してしまってありません。墓はありまずけれども。

三上 明治の終わりに廃寺になっていますね。放光寺も明治五年に廃寺、黄葉宗だそうですね。

増田 もう廃仏殿釈で皆潰れちゃったもので、私の円光寺の善導が、明治の初めごろ北陸からやってきたというのです。無住になっていたと思います。

ところで越中八尾(やつお)というところは、浄土真宗が盛んですが、数年前訪問しました。立派なお寺(聞名寺)の住職もロータリアンでしたから、案内してもらいました。

立派な柱が立っていまして、建ってから三百年になるのに、測量してみたらちょっとしか動いてなかったと言いますから、それは大した建物です。それだけ立派な寺やのに廃仏殿釈のときは門だけ潰されたと言いますね。門を潰せといわれ、門を潰しただけで、嵐が過ぎておさまったのです。

それから、私が学校で習った山根徳太郎、愛称トクチャンでしたけど、あの先生が戦後えらい頑張ったのでびっくりしたのですけど、あの先生の講義で聞いたのですが、興福寺の五重塔を五円で売り出したという。しかしだれも買うものがなかったので残った。もし買う人があって、壊して焚付にでも使う人がおったら、興福寺の五重の塔がなかったと言いますね。

三上 壊すのに金がかかるから、だめだったんですよ。

増田 しかし、五円で。

三上 五円じゃとてもやっていけないからと言って。

増田 あの時分は人手が安いから。それは今と違うて、問題になったと思うのですけども。

棚橋 古いけども、奈良時代までいくかどうか、その辺のところで。

吉岡 あの辺は遺跡としては今のところわかってないですね。文化財地図なんかにも、あの辺は載ってない。ただ、はっきりしているのは、江戸時代には、もう既に廃寺になっており、どこまでさかのぼるかということが問題になってくる。

可能性として、名前だけで決められないでしようけれども、恐らく中世、鎌倉時代ぐらいまではさかのぼり得る可能性はあるんやないかな、という気はしているんです。

ただ、恐らく飛鳥・奈良時代ぐらいまでの可能性はちょっと乏しいのと違うかなと。ええとこずばり言うて中世というぐらいまでは行く可能性があるやろう。中世と言っても鎌倉時代なんか、室町時代なんか今出ているように、天文年間であるとか永正年間というのは、室町時代の終わりごろになると思うのですが、だからその時代まではほぼ間違いないか。

佐々木 だからこれ消えたのは大体時代で言ったら、古代の。

増田 万願寺の万は、やはり念仏を何万回も唱えて、極楽往生を願うという意味でなかったか。京都で百万遍という地名もあるし、六万寺という地名もある。あれもやっぱり。

吉岡 古代寺院では、残っているのは、この現行地名で言うと教典寺。

棚橋 これも古代やけども、ずっとありましたからね。
佐々木さん


吉岡 古代までさかのぼり得る可能性は極めて強いというのが、この教興寺です。後の寺号地名のところでは今のところ、はっきりした遺構とか遺物は確認できていませんね。

棚橋 それは古代ではなかなか地名にはなりにくいのです。

吉岡 消えてしまう。だから中世、近世までお寺が存続していたら、地名にもなり得るけれども、中世段階で潰れてしまっていたら、当然名前すら伝わってこない。先ほど佐々木さんがおっしゃっているその西郡廃寺がそうやし、それからそれ以外でも、例えば清友高校の北の心合寺跡、それから服部川の高麗寺跡というのがありますね。

佐々木 龍華寺はどうですか。

三上 龍華寺、あれも地名はないんですね。寺はないけど、弓削だけが残っていますわな。

佐々木 龍華寺はなくなったんですか。ありましたね。

三上 村名とか小字にはないでしょう、龍華というところは。

山野 あれは明治二十二年かのときに龍華になったのですね。

辻田 現在龍華は学校の名前。

吉岡 龍華だけで言うたら、龍華中学校とか、龍華小学校とかね。

三上 西郡の西郡小学校ありますので。桂と言うておるけど。渋川なんかでも郡名、何かとっているんですね。 渋川寺で、渋川郡でしよう。

棚橋 古代のお寺で、それがそのまま地名になるというのは難しいです。

三上 何か条件があったんでしょう。

棚橋 何か条件があったのですかね。そこまである程度つながったような形で。

増田 鎌倉仏教が始まってから、浄土真宗が始まった鎌倉仏教、あの時分は新興宗教だったはずですが、それで私は万願寺の起源は、もちろん一番さかのぼって鎌倉以降。

しかし、実際はスタートしたのは北陸の方は非常に早く、東西は有名ですが真宗十派といって十派あるのですよ。そのほとんどがあっちの方、北陸の方です。

それで、二派は全国に広がりましたけど、実際この辺に来たのが、古いのは久宝寺にできた慈願寺ですね。千二百何年ごろですか、久宝寺にできて、それから八尾に移ってきたのですね。

それから、蓮如という人が中世の、あれで初めて河内にも広がったはずなんですが、それの尖兵を勤めたのが、慈願寺の法円とかいう人らしいですね、どうやら。

三上 教典寺も、古代は教興寺というのですか。

吉岡 言うたかどうか、それはわからないですね。今のところはっきりしているのは、奈良時代前期の瓦が出ているということであって、そのときの名前が果たしてどうやったか伝承としては、そう言うと思うのですけれども。

棚橋 鎌倉時代は教興寺で間違いない。

吉岡 間違いないですね。それは文献にちゃんと載ってきまずから。

増田 我々が垣内の善光寺さんと言うているのは、その教典寺のことですか。

吉岡 善光寺さんはまた違うのです。

増田 違いますか。

鶴田 これを見ると、大体鎌倉時代、皆お寺さんの。

三上 だからその名前が上っているということでしょうね。

佐々木 鎌倉時代になると万願寺も真宗では、違いますわね。

増田 真宗なんですよ。鎌倉時代に。

棚橋 鎌倉では、ちょっと真宗にはならんのです。
棚橋氏


増田 だから私は、まだ鎌倉期でなく永正何年であれば。

棚橋 永正なら、もうそれは真宗です。一応放光寺というお寺、先ほど円光寺ですか。それはいいと思いますわ。それは東本願寺云々と書いてあるから、これは間違いないです。円光寺が永正というのは間違いないですね。

辻田 万願寺が真宗のお寺であれば、ずっと残っていると思うのです。円光寺ができる必要ないわけです。これが私は宗派が違うと思うのですわ。私ども聞いているのは、円光寺の檀家は大信寺の檀家と、慈願寺の檀家と、それから大和のお寺のこの四カ寺の檀家によって、この円光寺を伝えたと聞いているわけです。

だから、麦のとれたときと、お米がとれたとき、神さんでは初穂、こちらは衣料ですが、それをずっと慈願寺と郡山へ持っていったわけです。

山野 慈願寺は、本願寺のお寺とは、深い関係があるらしいですね。

辻田 あそこの檀家が余り遠いから、近くでそういう道場を建てたら便利やからというので、向こうの檀家もこっちへ来た、そういうように聞いておる。

棚橋 道場と書いてありますから、まだ、でき初めという名前が残っていますね。そういうふうに今、おっしゃっているようなことが、大体違いますかな。

鶴田 わざわざ行かんならんですね。建てたら、もうすぐにちょっと行ったら。

棚橋 円光寺は、だからそれでいいと思いますね。万願寺はもうちょっと古いのと違いますかな。真宗となると、このあたりではあまり鎌倉時代では、真宗のお寺というのがないですからね。

一応、今のところ慈願寺さんと、たしか雁多尾畑の光徳寺さん、あれ二つが鎌倉時代の真宗のお寺です。

吉岡 勅願所としてもね。

棚橋 それ以外はないですからね。

吉岡 四集落もあったわけですね。それが合併して、一つの村をつくらないかんというようなことになったのと違いますか。そのときに昔から古い万願寺という寺があったのやから、その万願寺をこの地の名前にしょうやないかということになって、万願寺という村ができたと私は思います。

三上 なかなかうまくいっていますな。

辻田 久保田真吾、裁判官のあの方は非常に漢学者であった。その方が庄屋をしておられ、そういう何をもって万願寺という。

山野 今はもう万願寺という名前はないのですか。

辻田 全然ないんですな。ただ団体名では残っていますよ。青年会のような。実行組合。

三上 町名地番改正でとうとうだめになりました。

鶴田 本当に惜しいですね。老人会の万願寺ゲートボールの日と。六年から十年のかかりまで、万願寺におったのですから。(笑)

三上 どの辺におられたのですか。

鶴田 労働会館のところがら真っ直ぐ下がって、ぶつかったら、久保田さんの家があります。そのお家のすぐ右隣です。現在でもありますわ、まだ。あの当時椿原さんという人が持ってはったのを、うちがちょっと借りて数年間住んだのですけど、現在はあそこ、教えた生徒さんがおりましたからね。久保田さんの隣ですから割合近いです。

山野 私ら、今でも万願寺て言いますよ。

三上 改名になったのは、村の人が万願寺では悪いというような聲があったんですか。

鶴田 アンケートをとりましたら、万願寺よりも東山本。というのは、私、学校におったとき友達が万願寺というと、おまえとこ、お寺かという。万願寺と言うと、どこやということでもう一遍聞かれるわけです。よそへ通うている人は、東山本と言うたら、それでハハンとわかる、そういうことが多かったので。

三上 八月におじやましたときなんでそんな大事な名前だったら頑張り、万願寺を残すべきじゃないかといったんですが。

辻田 万願寺はおくれておるから早く開発を、山本にあやかりたいと。

三上 山本には今和尚がいたし、その位置、東といったらすぐわかるという高級住宅地。そういうことがあったので東山本となったんですね。

山野 随分山本は新しい.こざいますのにね。

三上 町名改正にはいろんな声が起きてきますね。本町とか光町だとか、緑ケ丘とか。

佐々木 私のところも萱振七丁目とかだったのに、緑ケ丘でしょう(笑)。歴史がみんななくなって。

鶴田 丘というのに、しょっちゅう水づかりがありましたやろ、そやからおもろいなと思って。

佐々木 緑もないし、丘もないのにね。勝手に決めてね(笑)。

増田 私とこは、今おりません。

鶴田 式部村って、おもしろいですな。そういう言い方をするのですな。

佐々木 橋に式部橋って書いてありますけど、あれ、「シキブ」と読むのですか。

山野 いちど万願寺辺も、文化協会で歩いてみないけませんね。

辻田 私ところは式部と新家は皆、御野県主の氏子であったわけです。それが、鳥居に出ていますね。

鶴田 本当の万願寺派は御領と堂垣内ですか。

辻田 堂垣内、どれぐらいの寺だったか知りませんけれども、真宗の寺でないとしたら、そんな大きな……。

吉岡 一応万願寺はどこにあったと思いますか。

辻田 私は堂垣内と思う。

吉岡 堂の内とか、堂の本とか、堂の窪とか、これは地名、小字としては、お寺のある可能性のあるところです。

三上 弓削の弓削寺のところも。

山野 あります。やっぱり堂垣内というところ、ございます。

吉岡 堂何々とかと言うたら、これはお寺の跡の可能性が強いですね。

鶴田 堂垣内が、一番古そうな感じですね。

吉岡 ここにひょっとしたら。

三上 万願寺があったと。

佐々木 俊徳丸の話を聞いたときに、何とか式部という人がおられて、その名前をとったと聞いたことがあるのですけど。

三上それでは、「万願寺」で一時間とりましたから、次に大信寺、成法寺も顕証寺も一緒で……。

棚橋 成法寺はこれ何寺かわかりませんな。

佐々木 成法(せいほう)中学というのがありますね。

三上 成法中学だけは残したのですな。前の山下さん、教育長が由緒あるものをということで保存を。

吉岡 成法寺は広いですね。全体的に言う場合は。

三上 庄之内、成法寺といえば、皆市の東南の方角ですね。矢作神社が大体六丁目ぐらいで、その間が成法寺。この成法寺もこれを読んでみてもよくわからない。

山野 成法寺は、私なんか成法中学ができるまで、名前知りませんでした(笑)。

佐々木 成法寺(じょうほう)をなんでセイホウと読むのですかね。読みにくいからと違うのですか。ジョウホウと読まれへんから。

三上 あれは前の八尾高の山下先生、あの方が盛んにそう言われたのです。あの先生は一中、二中という名前がきらいで、一中といってもどこにあるか、場所はわからん。ナンバースクールにすると一がいいみたいに思うといわれた。

地名を書いてすぐわかるように。それでその成法(せいほう)が出た。しかしジョウホウとは読みにくいからセイホウとなったと僕は覚えています。市会で名前つけるときにもめたものです。

吉岡 これは昔の売官、つまり官職を買う、成功という字を書いて、ジョウゴウと読む、ああいう読み方からきているのでしょうね。そういう意味では古代末期か中世ぐらいにさかのぼる可能性はあるかなという気はするのです。

佐々木 その寺域は中学校の場所ですか。道を隔てて墓地がありますね。

三上 西の方に中学校です。

吉岡 そこに伴林光平の碑がありますね。

三上 あそこは一丁目ですからあれも成法寺ですね。

吉岡 ただ、慶徳寺というところの五輪塔が今、残っていたのと違いますか。江戸時代ぐらいのものがあったように思うのですが。

棚橋 そうですね。今もありますね。

三上 成法中学の位置は、清水町で保健所の道を真っ直ぐ南に行った右、西の方ですから。

吉岡 あの五輪塔のあるところは。

三上 成法寺ですね。

吉岡 それはここに書いてある慶徳寺というのですか。

三上 慶徳寺と改めて書いてある。

棚橋 というふうに認められてきているのでしょうね。だからこれもひょっとしたら、さっきの万願寺と円光寺の関係やないけれども、比較的古い成法寺というのがあって、それが潰れて慶徳寺ができた。けれども、また江戸時代の終わりか明治時代の初めぐらいに潰れたという可能性があるのかもわかりませんね。

三上 「中河郡廃寺」には「百五十年ぐらい昔に」と書いてある。

棚橋 潰れたと、そういう可能性があるかもしれませんね。それで地名として。万願寺は中世のあれで、中世末期の真宗のお寺が、現在残ったりしていますね。

同じように成法寺も鎌倉ぐらいで、それ以外の新しいのが慶徳、楽音寺も、今はないですね。ほかのお寺はたくさんありますものね。

佐々木 そうですね。

山野 これは皆さん、何とお読みになるんですか。

三上 ガクオンジ。

棚橋 ガクと読みますね。

三上 ラクとは読まないの。

山野 私なんかはうクオンジと言いますけどね。

増田 昔はラクと読まないとおかしいですね。極楽のラクだから。

山野 昔は、ラクオンジと言うていたと思います。

佐々木 そうですか。

山野 私、母が上之島の出でございますから。それで、あっちの方は割合によく知っています。寺島で昔は庄屋だったらしいのですが、明治になってから没落いたしました。

棚橋 文書では、これが一番古いのですね。

吉岡 楽音寺の史料ですか。

棚橋 楽音寺などが出ています。一二〇七年に南河内の源氏のお寺の通法寺というお寺がありますね。

吉岡 通法寺、あります。

棚橋 それの河内の国の末寺として、八尾市の関係では龍華寺です。それから鳥坂寺、これは柏原です。それから久宝寺、葛井寺、楽音寺、ここに出ています。これが一応全部ですけどね。だから大体鎌倉ぐらいにはこの楽音寺も、これはあるのやないかと。

吉岡 万願寺も鎌倉時代ぐらいにはあるのでしょうな。そういうように考えたら。

棚橋 古代までは結局、古代寺院はこの中に入っていないのですな。

吉岡 そうですね。だから古代寺院は地名を残さない。もう途中で潰れているから、だから消えてしまっている。

佐々木 教典寺も初めが秦寺です。鎌倉時代から叡尊から教興寺になった。

吉岡 その秦寺も果たして、古代までさかのぼるかどうかはわからない。秦寺と言っているのは、心合寺跡については京都の広隆寺に残っている文書で、あの文書も新しいですね、中世のものだろうと思うのですけど、そこに「河内秦寺、又秦興寺」がみえ、また教典寺については、『感身学正記』に「教興寺秦寺」が出てくるのです。

三上 秦河勝の。

吉岡 果たしてそれまでさかのぼるかどうかはわからないですけどね。

棚橋 だから逆に言えば、ここに出てくることは、皆、相当古い地名、場所だということですね、結局。中世ぐらいまでさかのぼる。

山野 新しいのは、顕証寺でございますね。

棚橋 大信寺も新しいですよ。これは大信寺新田、顕証寺新田やから、これは一番新しい。

三上 宗派といえば棚橋先生の調べられた分で、八尾では五十七年で、本願寺系統が三十五、大谷が三十一、仏光寺派で三、浄土が五、融通念仏二十二、真言が三、日蓮二、臨済派その他で百二十六ですね。

とにかく、町名地番の改正で、大信寺も顕証寺もなくなった。

山野 今も残っているの違いますか。残っていませんの。本町ですか。

三上 本町です。

佐々木 寺だけですね、呼ぶのは。

山野 呼ぶ時、久宝寺と言いますものね。

山野 南久宝寺とか、西久宝寺とか、言うのは言いますね。

佐々木 交差点、残っています。顕証寺と。

吉岡 あれは道路標識でしよう。

三上 地名として残っていない。何かつくる場合、高安郡だとか、何かのいわくがあってつけたのでしょうな。渋川寺でも渋川郡でしょう、若江寺はあるのですか。

吉岡 古代のね。郡には必ず一つは郡領の寺がありますからね。少なくとも一つ以上はあったはずです。

佐々木 というのは、お寺が先ですか。

三上 地名が先か。

吉岡 そこが問題です(笑)。 それは何か呼ばれた地名がきっとあったのでしょうね。そこへたまたまお寺が古代のときに、建つということでしょうな。それはどちらが先か、ちょっと。

だからお寺がつくられてから、そのお寺の名前が地名になる場合もありましょうね。その地名をもとにして、お寺の名前がつくときもあるでしょうね。

三上 逆の場合もある。

吉岡 飛鳥につくられたから、俗称として飛鳥寺と言うが、本当は飛鳥寺ではなくて元興寺という名前で呼ぶとかね。秦氏の寺、秦寺というのが、高安という地名があったから、高安寺と呼ばれたりとか、藪がたくさんはえていたから薮寺と呼んだりいろいろあるでしょう。

増田 寺号自体は、ちゃんと理屈が通らないといけないから。それは…。

吉岡 名前がお寺についた場合もあるでしょう。

三上 相当の根拠があってついたのでしょうからね。今でも中学校の名前をつけるのに、ワアワア言うておるぐらいだから。

増田 三上さん、それと六万寺は八尾市の地域に入らないのですね。

三上 六万寺は東大阪市です。

増田 東大阪市ですけれども、非常に八尾市に近いことは近いですね。六万寺も万がっく。これは私ちょっと読んだのですが、浄土宗として開基しているのですよ。

そやから、万がつくのは浄土宗とか浄土真宗に関係のお寺には万をつける。寺号をつけるとき、非常に慎重に考えているから、念仏に関係した言葉は、万だと思いますね。私は万願寺は浄土系だと思うのです。

山野 そうしたら、この万願寺や、ら六万寺というのは、随分新しい寺になりますね。

増田 新しいと言うたって、やっぱりおっしゃっているように、鎌倉に始まったのだから。

山野 そうでしょうか。

吉岡 浄土系と言えばいい浄土系は平安時代ぐらいまでさかのぼる。

三上 全国的に万願寺はほかにないのですか。

増田 いや、兵庫県に万願寺というお寺ありますね。

三上 満行寺というお寺が私のふるさと石見−島根県−にあります。

山野 同じ字ですか。

三上 お寺さんの名前には、法(ほう)の字が多いですね。

棚橋 法(のり)、仏さんの教えやから。

三上 名前にもいろいろあるけども、やっぱり万はそうでしょうな。だから、これが消えたのを興すということは難しいでしょうな。

私は、町名地番改正の委員になったことはないのですが、山下さんみたいなうるさい方が出ているときは安心(笑)。山下さんは神宮寺で、今は残っているけども、いずれ山手の方も町名地番改正するでしょうから極力、残してもらいたいものです。

山野 よく話しします。

棚橋 慈願寺の方をもっと研究せないかんですね。一番大事な。

増田 慈願寺には男の子が二人おったはずです。軍隊で一緒になって、私も同じ八尾中で、「私は慈願寺の息子で」と言われて、知ったのです。

山野 慈願寺を継いでなさる人は、兄さんの息子さんですね。

増田 そうですね。その前は男の子がおったのですけど。鹿崎さんです。

三上 先生されていたのでしょう、息子さんは。

山野 屋敷内に家が二軒ほど建っています。

三上 そのどっちの息子さんか知らんけど、いっか訪ねてこられました。お勤めば御堂筋のお寺の事務局行っているとか。

山野 今はもうお父さんが病気で、お参りもあの人がしているらしいですよ。

増田 ややこしいて、もうわからん。そのとき万願寺がないとおかしいですね。ややこしいから取っちゃったというようには考えられますね。

鶴田 真宗と違うお寺と思うていたのと違いますか。万願寺ならややこしいから。

吉岡 万願寺はどこにある。これですか。

増田 万願寺式部村と書いていますやろ。 この書類とこの書類とは二十年ぐらいしか離れてない。だから当然にあったはずです。

山本しかし、寺号地名の寺を随分探しても、絶対ないという寺ございます。というのは例えば柏原の太平寺、智識寺の別名です。ところが太平寺という寺、山の上にあったということを今も言っているのですよ。ありはしませんよ。

智識寺の別名だったのです。だから太平寺になったのです。

安堂寺町というのが、大阪市内にございます。安堂寺という寺、その町に絶体ありませんよ。あれはアンドン寺という「安い、曇る、寺」というのが、大阪城の三の丸にあって、そこへ行く道路なのです。だから今の寺号地名もそこに寺がないけど、行く道路、それに寺号をつけた町、ほかにもたくさんございますよ。

だから、別にそこに寺を探さなくてはいかんということもないわけです。または寺の所有地だったために、とんでもないところに所有寺の寺号のついた所もあるんです。

三上 飛地みたいな。

山本もちろん私この寺号地名の下の新田は、これは河内平野の例の付替工事の余韻かと思ったら、新潟にたくさん現在でもあるのですね、寺号地名の下に新田がっく地名が。

だから、やっぱりあそこは田んぼの多いところですから、寺が開墾したとこ、とんでもない寺と離れたところでもその寺号地名がついている。

だから、王寺なんていう町名は凹凸の凹と土地の地で、それを好字の王と寺に変えたわけです。それを王寺という寺がどこにあるんだという質問をする人がいますがそんな寺はありません。だから必ずしもそこにその寺があるから、というので断定するのもおかしいのです。

そしてテラという言葉は、非常に誤解しやすいのは、「照らす」から来て、南のことを言うのですからね。その反対にアテラという地名が十河ケ所ございまずけれども、これはアというのは、打ち消しの英語のアンじゃなしに、南方語のアですけど、打ち消しで北のことを言うのです。寺は「照らす」で、南ですけどね。

だけど、それを打ち消すアがついて、アテラという地名、左沢(あてらざわ<山形県にある地名で最上川の左岸にあるため、左の文字を当てた難地名>)というのがございますが、それは北側の沢のことを言うのです。だから、その仏教の寺と違う。

もう一つ、寺をテエラとお読みになったら、タイラと読めるでしょう。九州から南方諸島にありますよ。寺という字を書いて、宮崎県や熊本県なんかには、平と書いてテラと読むところもご、ざいますが、その平らだったら、まだいい。寺という字に変えているのです。

後日、ここに何とかという寺があったと言っているのだけれども、違う。平たん地なところです。後の人が、地名の語源を探すときに誤解するのですよ。

赤川町、都島にありますね。私、実は大阪で地名の講演したときに質問を受けたのです。赤川町の語源を。困りまして、実際、自然地名は多いですからね。赤川というのは丹生川のように、みんな光明丹(鉛丹)の流れている川です。

ところがあそこは淀川の支流だから、光明丹が流れることはないし、困ったのです。赤というのは、いわゆるサンスクリットの供水です、例の仏前に供える水のことです。

だから、多分寺があって、その寺へ仏さんに供える水を汲んだ川であるに違いないというところまで、私、そのとき回答した。帰ってみたら赤川寺という立派な寺があったのですね。室町の初めまであって何回も洪水で流れて、復活していません。鎌倉時代に相当な寺です。その所在地が現在の赤川です。

でございますから万願寺はありましたでしょうけど、何か寺の別表も地名になっていることも、余りにも探してないときは考えてもいい。今太平寺ということを言いましたけど、そういう例はないことはないのですから。通称で言っているということはあるのです。

そうすると地名なんかは、一般市民のコンセンサスで必ずつきますから、だから通称の方をつけてしまうのです。難しい名前のやっとか、字が難しいのは敬遠して、簡単な方をつける。

ということは、簡単な字を書くことと、好字とで地名はつけられます。

三上 円光寺さんなんかの場合は、大和川で流れたとかいうことはないのですか。まともに大和川を通っているでしょう。

増田 そういう可能性も、お墓がやられたぐらいだから、大和川の氾濫で流れたという可能性はありますねρここにもともと万願寺というお寺があったとすれば、そのときに一緒に流れて潰されたという可能性はありますね。

辻田 墓地が流れたときに、石碑も一緒に流れたと言うたでしょう。私ところの前栽の隅に、私、兄貴と子供の時分水やるのに、井戸を掘ったのです。そうしたらこのぐらいの大きさ、石碑の上に乗せるのが出てきた。

私とこからあこまでは、百メーター、二百メーター。それは井戸掘ってニメーターぐらい下から出てきた。

それで昔、石碑が皆流れてしもうたということを聞いており、丸こいから流れやすい、コロコロと百メーターまで流れてしまったのやと。

鶴田 上之島といいますが、何でこんなとこ島の名前がつくんかいなと、実は思うとるんですけどね。

吉岡 あれは洲じゃないのですか、大和川の。中洲みたいな感じになっていた。あの中之島やないですが、川の中の。

増田 いや、あの一部は高かったことは事実やと思いますね。だからあそこにお宮さんが古くからできています。少々氾濫あったって大丈夫です。そこはかなり高かったのではないかと思いますね。

辻田 今でもちょっと高いですね。

鶴田 山本辺では、平素流れが東側の方へ流れておった。だから初めて住友住宅建ったとき、東側へ水が、砂がずっと流れる。西側が土塀で……、井戸掘っても水が悪いわけです。それで住友が住宅つくるときに、東側を自分ところの住宅にして、西側を近鉄に譲ったわけです。

こちらの東側が氾濫した方ですね。

辻田 こっちが水源地がありますね。山本に。

増田 私とこはちょうど東山本、今の万願寺ですけど、田んぼやったとこ、戦前埋め立てたところがあるのです、それを掘りますと、ぎょうさん砂が出てくるのです。

それはもう明らかに大和川の砂で、かなりこっち側まで下が砂地だったのですね。氾濫のときに下に来ておるのですね。

二上 今でもまだ井戸はあるのですか。使えないでしょうけども、水はきれいですか。

増田 私ところは昔造り酒屋をやっておったから、井戸があるのです。明治にやめて、今は使ってないのです。

三上 突然、酒屋さんが出てきましたよ。珍しいですね。

辻田 あんたとこは分家の方じゃないんですか。

増田 あれは販売権だけ持って出たのです。だから私ところのまだ残っておる蔵は酒蔵だったのです。

三上 何という酒の名前ですか。

増田 そんなん全然わからないです。それを調べたのですけども明治の初めに税金がきついからと言うて、返上したんだそうです。

三上 水はよかったのですな。

増田 よかったんですよ。酒をつくるぐらいだから。

三上 まだ井戸はお使いになっておるのですか。

辻田 まだ私ところは自家水です。少々やっても底までにならんですな。あの辺が水脈です。恐らく井戸を使っているのは、今、万願寺でも五軒あるか……。

三上 飲んでも大丈夫ですか。水呑さんの水が、今いかんそうです。あんな山手にあっても。もうあんまり飲みなさんなと、水道局が言っていますよ。

辻田 保健所へ行って聞きました。その水脈の上の方には工場とかないから、大丈夫だろうと、きれいな水で。

吉岡 今後いま見つかっているこの資料と、文献史料、お寺そのものと、それから石仏とか神社とかを総合的にまとめていかれたら、一つの「万願寺史」みたいな感じで、十分まとまると思います。

今まで余り知られてない、地元の人はお名前も十分ご承知なんでしょうけれども、八尾市民の方々を含めてほとんどの人たちがその歴史的な背景とかわかってないし、どこまで名前がさかのぼっていけるのか、ということを実証的に進めていかれたら、非常にいい成果になるのと思いますけれどもね。

墓地も今、墓碑なんかは残っているのですかね。江戸時代の物は当然あるのですか。

辻田 墓碑の方も調べたのがありますね。それに大体一番古いのが出ていますね。

吉岡 だから室町時代の末期から江戸時代の物までは大体さかのぼれるわけだから、いい史料やと思うのですけどね。やはり川原を利用して、墓地を作ったというのも、お寺とセットで出てくるのだろうと思うのですけどね。

川原や東山のあの一帯は、ひょっとしたら中世ぐらいまでさかのぼる墓地ではないかなと思っているのですけど、荒廃地みたいなところをうまく利用して、ひょっとしたら河原に遺体を遣棄するような場所であった可能性もあるんじゃないかなと。

京都の清水寺とか大谷御廟のあるところ、あの辺あたりはもうまさしくそうですね。河原へ捨てて、そこのところをお寺とか、あるいは墓地として利用していって、今は最終的に大谷御廟なんかもある。ああいう形で山のすそ野の川原で、余り人が住めないようなところへ遺体を処理した、あるいは遺体が転がっていたとかいうところにお寺ができたり、住めるところにはもう人間が住んで、やってきたのじゃないか-なという気がしているのですけどね。

その辺は、今度話をしようかなと思うているのですけど、山本の労働会館の講座で。

増田 私は、この前、現場も見に行きましたが、発掘して上之島のずっと北の福万寺に行く途中のあたりから遺跡が出てきて、それが室町時代のどうやとか、ありましたですね。

吉岡 福万寺、池島のあの辺あたりですね。向こうもこの万願寺とか六万寺とかいう点で言えば、福万寺で万がついていますね。

恐らく向こうも鎌倉時代ぐらいまでは、さかのぼる集落跡が、今残っているみたいですね。それはきちっとした集落としてつかめそうです。それがさらに古くなったら、棚橋先生専門の条里制の遺構なんかも、福万寺一帯では非常によく残っていますし、少なくとも奈良時代ぐらいまでさかのぼると思うのですけど。遺跡としてはさらに古くなって、古墳時代の玉造遺跡が見つかっているのですが、それよりもさらに古くなると、もう弥生時代の弥生土器とか、そんなのが出ているのですけどね。それで水田跡とかも最近の調査で見つかっています。

だから時代がずっと重なって、あるみたいですね。弥生時代の遺跡があって、その上に古墳時代の遺跡があって、また歴史時代と重なっていく。中世の寺がつくられて、それが潰れて、また近世の寺があって、その近世の寺の名前が残ったり、中世の寺の名前が残ったり、ということが各地であるみたいな感じで、これ非常に興味のあるところですね。

山野 昔はありましたでしょう、万願寺村て。

辻田 受け堤というのがありましたね。

三上 どこにあるのですか。

増田 ないかもわからん。

辻田 氾濫のときに、そこから北へ流れんように大きな堤防がある。それが今度は玉串ですね、福万寺と玉串との境界に大きなウケ堤。第二寝屋川ですけどね。

山本 日本には万願寺という寺号地名は多いですね。全国でやっぱり神宮寺が一番多うございますな。もう十何カ所近いのではないかと思います。次は万願寺で、やっぱりポピュラーな名前なんですな。だから万願寺という寺号地名大分ございます。

三上 だからこの廃寺の中でも神宮寺が六つあります。

吉岡 この神宮寺というのは固有名詞じゃなくて、普通名詞ですね、あれは本来はね。

山本寺号地名の中に入れておきましたが、あれは普通名詞で考えてよろしいと思うのですけど。

太子堂の堂がつくのはこれは四カ所ですか。後は皆、太子で堂はっけないですね。堂のところまでつけない。ここは南河内の太子町か。姫路の隣も太子町です。

三上 さて、約束の時間が来ましたけども、何か特にこのさいおっしゃっていただけることがあれば。

山本先生方いらっしゃるのでお聞きしたいんですが、顕証寺から大信寺が分離したときのいきさつ、どなたか教えてくださいませんか。きようの議題が違うかも知りませんけれども。

棚橋 いや、大信寺は後から来たのでしょう。

山本 後からできたのですよ。それは。

棚橋 だからあれはもともとあっちの顕証寺の、もとの村の久宝寺の人々が、顕証寺は西だったから、結局こっちに新しい村つくりましたね。そのつくった段階で、京都からお寺を引っ張ってくると言うとおかしいですけど、自分らの信仰の中心のお寺をつくったのです。

山本 別に檀家のけんかで別れたわけではございませんな。

棚橋 檀家のけんかではないですね。一応あれは久宝寺の支配のやり方とか、そういうような問題で。

山本 そうですが。

三上 慈願寺もやはり京都から来たのでしょうか。大分古いわけですな。

棚橋 慈願寺は顕証寺できるずっと前から、鎌倉ぐらいから久宝寺にあったのですね。

三上 八尾の町は大分後ですね。久宝寺よりは。

辻田 東さんの寺、その上にたって支配するという意味で。

三上 柏原の何とか寺とか。

辻田 今でも私らのところは、檀家総代で寄って、そこへ行って、上納するわけですけれどもね。

三上 そうですか。

山野 北御堂と、南御堂とある見たいですね。八尾にもこの近いところに東西の、あったんだと思いますわ。

辻田 今でも修繕とか何とか皆、我々の寺に入って何ぼずつ出せ、何十万出してくれと。

三上 仏さんを見ると、東の方はすぐわかりますね。やっぱり仏さんが大きくて派手ですね、後からできたのが。西の方は小さい。恵光寺は西ですね。

佐々木 そうですけど、ちょうど前に徳蔵寺て、お東さんがあるのですよ。だから対になってどこでもあるのかなと思うて、信者の取り合いとか。

山野 それに恵光寺さんはどうして、その恵光寺の名前がっかないのでしょう、あそこは大分大きいお寺で、恵光寺町と、そういうものがないのは不思議でしょうがない(笑)。

三上 僕も不思議でかなわなんだ。あんなに古いのがあって。何で緑ケ丘……。

佐々木 加津良神社がものすごく古くて、式内社ですから、もう加津良神社が既にでんと強かったのと違うかしら。

棚橋 恵光寺は江戸時代ちょっと勢力が弱くなってますやろ。

佐々木 平野にも恵光寺というのがあり、ちょっと弱かった時期があったからかな。

山本 しかし、その寺のために何かの利害の恩恵をこうむっておったら、皆、つけてもオーケーと言いますよ一笑)。それがなかったら、だから寺内町ではなくて、門前町と言ったのは、門前町だったらある程度の利害を受けていますから。それから寺内町だったら受けないものがたくさんいます。または宗派が違うのがいます。キリスト教もおったかもしれませんしね。

だから、私は門前町という言葉をさっき使ったのはそれなんです。今の天理市とか金光市という市ができた。あれは天理さんが市のために非常にメリットをもたらしているから、みんなが賛成してああいう名前をつけたのですけども、そうでもなかったらつけませんよ。

だから宗教の一つの本山だったらつけますけど、仏教はたくさん宗派がございますから。私だったら禅宗ですから、禅宗の寺の名前でなかったら反対しますよ。町名変更せいと言って。

佐々木 きようのテーマはお寺ですけど、萱振の場合は萱振というのが大体加津良神社の祭神を祭ったというのから、萱振というのが出ていると聞いています。

山本 振りは完全な朝鮮語ですよ(笑)。

佐々木 いろいろ説はあるのですけど、でも一応それは加津良神社に関係しているのです。だから神社の地名も。

三上 神社の地名もあるわけですな。

山本 それはさっきの、鳥居町地名は多いのですよ、日本には。しかし逆に地名からついた名前の方がむしろ多いから。鳥居町は全国普遍していますよ。こんな百もあるし、片一方は五つしかないなんてことはございません。東北も大したお宮はないけど、だれかさんの熊襲の住んでいるところではございませんけど。

佐々木 八尾の場合でも物部の戦いがあって、今、木の本というのもみんな神社から、樟本神社の。だからそういう関係。

山野 萱振というのは、神社はどなたをお祭りしているのですか。

佐々木 いろいろ祭神が変わっていますけど(笑)、私の意見で言うたら、絶対これは物部氏ということに。

山野 ありがとうございます(笑)。

佐々木 先生、牛頭天王とかおっしゃっていましたけどね。

山本 やっぱり地名は自然地名が一番多うございます。山、川、谷。二番目が神社仏閣、建造物の地名。ところが、これはかわいそうなことに建造物地名だとか、人文地名は消える可能性が非常に多い。随分消えていきます。これからも消えます。この運命にありますから、今四つ消えていますけど、これからまた八尾も消えるかもしれませんよ。この運命はしょうがないですね、人文地名は。

しかし、いろんないわく、因縁の故事地名よりも人文地名は意義のある語源と思うのです。そしてやっぱりそこに一つの目標の建造物がありますから、みんな宣伝する必要はありません。関西のは、みんなもう宣伝する必要がないから簡単につけたのが多うございますよ。

だから、寺号地名の中に住んでいるのがおもしろいと思いますよ。ところが何かやっぱり抹香臭いということがないこともないですが。やたらに花の百合ケ丘、五月ケ丘。

一昨年、あるところでコスモス台とつけたところがあるのです。そうしたらリクルート・コスモスの問題が起きて、笑い話でなく本当の話です(笑)。つけた途端にリクルート・コスモス問題が起きたから、もう一回町名変えようかと。昭和三十七年住所変更の政令以来随分変わりましたからね。

しかし、今は訴訟したら五十人以上おったらもとに帰ります。渡辺という名前残しました。あれ頑張ったからあの地名、神主さん夫婦しか住んでいないですからね、町内。それでも頑張って残しました。

しかし、法隆寺も裁判しましたね。負けたのですが、近辺だけは法隆寺という地名残っていますから。あとは全部竜田町になりました。しかし竜田町の広範囲の連中が訴訟を起こしたのです。何で法隆寺を消したのだという。まあ、そんなことです。

三上 それでは、これをもって終らせていただきます。お忙しいなか、しかも本日は土曜日のご出席で、心からお礼申します。

なお、座談の途中、編集部の森川さんが出席されましたが紹介の機会がなく失礼しました。森川さんは本誌の創刊号からタッチされ、編集のベテランです。

編集部には本日出席の四人と、田中美津子さんと池尻安子さん、お二人の女性がおられますのでよろしく。

本日はほんとうにありがとうごさいました。

やお文化協会発行 河内どんこう No.31 VOL.14・1990-6 より転載

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